カラーチューン |
イタリアン デザインのレオナルド。 でも、色分けが何か野暮ったい・・・
シルバー カラーであれば、気にならない部分も車体色が他の色になると配色的に良くなくなる。
特に自分のは、ブラック系なので薄い灰色だとバランスが悪る過ぎる部分があるような気がする。
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20030107 夜です。
デジカメを始めて購入してやっと撮れたレオナルドの写真です。
最初の状態の姿を残しておきたかったのですが・・・・
「サイドカウル」にあった「Leonardo」の立体ステッカーは剥がしてあります。
「フロントカウル」の立体ステッカーも無いです。
「サイドカウル」の下側もグレーなので、2液式のウレタン塗料を刷毛塗り。
大々的なマスキングの手間を省く超いい加減な塗装になりました。
でも、もともと、凸凹した表面だったのでパッと見はぜんぜんOK ? だと自己満足している。
なんでこの感じで製品にしなかったのだろう?
街中で他のレオナルドを見かけても、どうもアンダーカウルの下やドライブ部分が灰色なのが気になっちゃいます。
SCSのマフラー付けていても、カーブで後ろから着いていくとみょーに灰色が目立つ。
でも、それぞれの好みだから・・・
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「20040602」頃の姿です。
デジカメを新しく購入してやっと撮れたレオナルドの写真です。
ノーマルと違うところは色+ステッカー・チューンだけ・・・ですね。 |

楽天 45Degree
ネル布
190+850 |

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「2005.03.26」
なかなか大きく時間が取れず、大工事ができないので
かなりマイナーなところ |

楽天 45Degree
White Diamond Metal Polish
2300+850 355ml
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「2005.04.16」
今回もマイナーなはなし。
よく傷がついて筋が目立ったり、ブーツの擦れで汚れたりするので黒のタッチペンでチャチャッと塗ってみた^^
塗った後に、カッティングシートもありではないの?
おぉ、カーボン柄なんかいいね。
リア周りの黒もカッティングシートにすれば・・・と妄想が広がった。
なんでも、やってみるもんですね。
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楽天 M'z Net
カッティングシート
カーボン ブラック 光沢
1250x1000mm
1543+850
7000<0 |

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PAROI
カッティングシート
カーボン ブラック 半光沢
1220x1000mm
3700+0
7000<0 |
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2003年3月10日、伝説のライダー「バリー・シーン」が癌で亡くなりました。 彼の52歳の生涯を少しだけ紹介します。 |
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2003年3月、F-1オーストラリアGPにおいて、大会事務局からオフィシャルとしてチェッカーフラッグを振る事を要請されていたが、体調不良のため辞退した直後の訃報。
イギリスのスーパーバイクではバリーシーンの栄誉を称える為に#7が永久欠番になり、スズキから参戦予定の加賀山選手のゼッケンが急きょ#7から#71に変更された。
2004年F1オーストラリアGPで、バリーの妻ステファニー・シーン(元プレイボーイのNO1バニーガールで超美人)が、バリーが2003年に果たせなかった「チェッカーフラッグ」を振った。
スズキの黄金時代を築いたバリーは、英国王室から「MBE」の称号を与えられ、サー・バリーシーンと呼ばれていたが、どんなに称えられても、おごらず、威張らず、「自分は、ただバイクに乗るのが得意なだけで、ただそれだけだ」と言っていた。
左手小指と、右足の指を切断しており、足にはプレートが埋め込まれて、体中ボルトだらけの彼は、各国に移動の際、いつも空港の金属探知機に反応してしまい、その度にボディチェックを受けるのにうんざりして、常にX線写真を持ち歩いていた・・・なんていうのもホントの話。
メタルミッキーという愛称でも親しまれた。 グランプリのレース中に、コーナーで、前を走るバイクに手を伸ばして触れるなどイタズラしたり・・・まったく、凄いライダーでした。
☆バリー・シーン☆ 英国で最も有名な二輪ライダーで、最高峰のGP500ccクラスで二度のチャンピオン。 二度の大きな事故を乗り越え不死身と呼ばれた。
1968年にデビューして、'69、'70年イギリス125ccチャンピオン。 '71年からGPにフル参戦し'73年よりスズキと契約。 '75年デイトナ、バンクを280km/hを超える速度で走行中、リアタイヤがバーストして転倒し、左大腿骨、右手首、右前腕、右鎖骨、6本のろっ骨、背骨も数カ所圧迫骨折の重体。
しかし、7週間後にはレースに復帰し、一時はトップに立ち周囲を驚かせた。 大事故から4ヶ月後のダッチTT(アッセン)では、常勝アゴスチーニを押さえ500ccクラスでGP初優勝を果たし、翌'76年,'77年と500CCクラス世界GP連続チャンピオンになる。
その後'82年シルバーストーンで270km/hで転倒していたマシンに激突し両下肢と左足首粉砕骨折、左膝、左手首、左手薬指複雑骨折。(左手小指は'80年に複雑骨折,切断)
現場に居合わせた者は皆バリーが死んだと思い、ライバルのケニーロバーツ(キングと呼ばれるアメリカの偉人的ライダーで息子も現役GPライダー)も涙を流した程大変な事故だった。
しかし4日後にはベッドの上でプレスの取材に応じ、3ヶ月後には足にボルトが多数入ったままサーキットへ来場して、ファンの前で元気に手を振って声援に応える。
レース生命を絶たれたと思われたバリーだったが、翌'83年にカムバックを果たし、ワークスマシンではない市販マシンでいきなりポイントをゲット。 '84に旧型マシンでワークスを相手に、トップグループを争う活躍を見せたが、同年に引退。
500CCは通算19勝(他に125CC3勝、50CC1勝)。 ('76は前半6戦で5勝してチャンピオンを決めた後、残りは欠場している) ゼッケン7とドナルドダックのヘルメットが、現役時代のトレードマークだった。
90年代に生活拠点をオーストラリアに移行。 引退後4輪でもカーナンバー7でツーリングカーレースに出場。 「ベッドに寝て目を閉じていると、遠くから僕を呼ぶ声がする。RGが僕を呼んでいたんだ」
復帰後彼が語った言葉だが、RG500は彼を死の淵から呼び戻す程魅力的なマシンだった。 デイトナに行った時にAMAからゼッケン7が与えられ、グランプリに戻ってもゼッケン7をつけ続けた。
FIMから反対されたが、チャンピオンになってもゼッケンは7だった。 理由は、子供の頃から7が好きだったからずっと7を付け続けたとか。 その後、バリーに推薦されてスズキワークスに入ったケビン・シュワンツがバリーのアドバイスでゼッケン34をつけ続けた。
決めつけられたシステムや体制に反抗していた彼は、そのルックスとマスコミへのリップサービスで、当時のレーシングライダーのイメージをエンターティナーばりの弁舌と行動でを一変させた。
レース後にはスポンサー銘のタバコを一服し、ジョークを織り交ぜて情感たっぷりに勝利者インタビューに答え、そしてスポンサーへの賛辞とファンへのメッセージで絶大な人気を得た。
バリーは「命懸け」というレースシーンの世界をはっきりと「スポーツ」として認識、変換させた先駆者だった。 いつもジーンズ、Tシャツ、長髪と社会に反抗する若者だった彼は、英国でM.B.E.(the
member of the British Empire)を女王陛下から授与され、「バリー・シーン」は「サー・バリー・シーン」と呼ばれる様になった。
スペイン国王一家が自家用ヘリコプターでスペインGP観戦に現れた時、自らもパイロット・ライセンスを所持するシーンは興味津々で王家専用機(多分、イタリア製のアグスタ)を拝見とばかりヘリの元へ近づいたが、衛兵に追い返され、その場を立ち去った。
それを知ったスペイン国王は激怒した。「馬鹿者! 何故シーン卿を追い返した!彼なら自由に乗りまわしても一向に構わない」と。 その後、カルロス国王は正式にバリーを招待し、ヘリに同乗したというエピソードも語られる。
バリー・シーンは一般人から王族まで極めて幅広く愛された。 バリーシーンの訃報を受け元F1チャンピオンのデイモン・ヒルが語った。 94年のタイトル決定戦となったアデレイドで、論議を呼んだミハエル・シューマッハとの接触事故の末に同年のタイトルを失ったヒルに対し、シーンは貴重なアドバイスを授けたという。
「彼は僕にとって最初のヒーローであり、またとても大切な人だった。 ドライバー人生の中で最高に大事な一言を彼がアドバイスしてくれたからだ」 「94年にミハエル・シューマッハーがしたことのために僕が1ポイント差でタイトルを逃した、あの後のことだ」
「ピットガレージに戻り誰とも話さずにいた時、彼が僕をつかまえてこう言ったんだ。“絶対に何もしゃべるなよ”」 「ああいう時にバリーみたいな人間が近くにいてくれて本当にうれしかった。そういったこと全て経験済みの人だ。言いたいことがあっても我慢しろということだった」
「実際、僕のキャリアの中で決定的な瞬間だった。もしあの場にバリーがいなかったら 一体どうなっていたか」 |

楽天 RGM
AGV
T-2
バリーシーン レプリカ
50224+0
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